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NEw (2008年6月17日 )    

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「おがさわら丸」で父島二見港を6月12日に出発した硫黄島訪問団一行は、翌13日、硫黄島に到着。同島には艀で上陸し【写真左】、駐留自衛隊と鹿島建設(現地駐在)の協力を得て島内を移動。村立平和祈念墓地公園で慰霊祭及び「平和祈念会館」の戦没者追悼式典を行った。午後には、旧島民や中学生らは島北部の天山戦没者慰霊碑、摺鉢山(パイプ山)のほか、地下壕群など島内を巡拝した。                        

 慰霊祭は午前9時30分から、旧島民慰霊碑がある「硫黄島旧島民平和祈念墓地公園」で始まった。式典の挨拶で小笠原在住硫黄島旧島民を代表して岡本良晴会長は、「悲惨な戦争が終わり、63年の月日が流れました。63年前、小笠原村のこの小さな島で、世界の歴史に残る日米両国の激しい死闘が繰り返されたのであります。私たち小笠原村民は玉砕の島「硫黄島」を決して忘れてはなりません。悲惨な戦いの果てに、私たちのお父さんやご主人、ご兄弟、諸先輩は戦死されたのであります。その無念は、この上なき痛恨の極みであったことでしょう。本当にご苦労様でした。今こそおいしいお水を沢山飲んでください。あなたたちの犠牲の上に今の日本の平和、小笠原村の平和があるのです。本当に有り難うございました。」と、英霊に向かって無念の思いと感謝の気持ちを切々と述べた。

 さらに、「戦後63年経った今でも一万一千余柱ものご遺骨が地下をさまよっております。私たちは厚生労働省、防衛庁、東京都、小笠原村、日本遺族会、硫黄島協会の皆様と協力し合って、最後の、最後の1柱が見つかるまで全力を尽くして遺骨収集に取り組み、必ずお迎えに来ることをお約束いたします。」と追悼の辞を述べると共に、今もなお残る遺骨の収集の完結を誓った。【本紙・七星浩也記者】


 玉砕の島・硫黄島

  なお残る未収集の遺骨 1万1千余柱


 硫黄島を訪れた2日間は好天に恵まれ、強烈な陽射しが肌を刺す。当時の日本軍将兵の苦悩が偲ばれる一方、6月13日、14日の2日間、硫黄島旧島民、小笠原島民、小笠原中学生ら194人が墓参のため今年も島を訪れた。父島から250H離れた日本最南端の小島“硫黄島”。 島は、米軍との死闘があったとは思えぬ穏やかな表情だった。

 太平洋戦争の末期、この島で日米合わせて約27.000人が戦死した。昭和19年7月に強制疎開で島を去ってから、返還後、何度も訪ねた人もいた。

 のどかな自然とは対照的なトーチカの残がいが、「玉砕」(45年3月)の傷跡として残り、63年目の今も1万余柱以上の遺骨が地中に眠っている。しかし、猛烈な艦砲射撃で、摺鉢山が低くなったというが、今は、かつての集落さえもほとんど跡形を止めていない。

 厚生省による遺骨収集は、島が日本に返還された昭和43年以後、毎年1、2回行われているが、これまでに見つかった遺骨は約8千余柱。うち氏名が特定できて遺族の元に戻ったのは約80余柱に過ぎない。硫黄島の旧日本軍死者は約2万人。旧島民も軍属として残された男性たち82人が戦死した。

 太平洋戦争の激化に伴い、昭和19年、小笠原諸島が最前線基地となり、6.886名(内硫黄島民1.098名)の小笠原島民は、軍の命令で手荷物は風呂敷包み二個に制限され、着の身着のままで強制疎開をさせられた。このうち、15歳から60歳までの男子825名(硫黄島民160人)が軍属として島に残された。

 日・米軍合わせて2万7千余の犠牲者を出し、“玉砕の島”として広く知られている硫黄島旧島民の戦死者は、軍属として徴用された160人のうち、82人が含まれている。


【硫黄島用語】

  東京から南南東に千二百五十キロ離れた広さ約22平方キロの島。太平洋戦争の戦局の悪化に伴い、約1.200人の島民が強制疎開させられた。日本軍2万人、米軍7千人が戦死した玉砕の島として知られる。終戦後も米軍の占領下におかれたが、1968年に返還された。政府の小笠原諸島振興審議会が活発な火山活動や産業の成立が難しいとの理由で「定住は困難」と結論づけたため、現在、自衛隊基地関係者しかいない。戦後、元軍人や遺族らの運動で、現地への墓参や厚生省の戦死者遺骨収集が始まり、これまでに約8千余柱が見つかった。

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