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NEw (2008年6月18日 )  

                                


 訪島によるフィールドワークの効果は絶大 

  「硫黄島訪島事業」を村民のアイデンティティ形成に

 ----------------------------------------------------------------------------------------------------【記者の目】

 東京から南へ1、250キロ離れた“玉砕の島”硫黄島(東京都・小笠原村)。戦争の犠牲となった2万1.000余名英霊を供養しようと始まった「硫黄島訪島事業」(小笠原村主催)は、平成9年に始まり、今年、12回目を迎えた。今回の一般村民の参加者は44名を数えた。

 小笠原村に10年以上在住の男性(母島)は、「ようやく来ることができました」と念願が叶った顔に笑みを浮かべる。また、母親(40代〕は「息子や娘が行って話を聞いていたので、いつか自分も来てみたかった。内心はとっても楽しみなのですが、それを表現しづらい場所です」と苦笑した。父島在住のある青年(30)は、「一般の人々が行かれないところに小笠原村民だけ行けることが嬉しい」と話していた。

 一般村民の観光気分は否めなかった。ある人は、映画「硫黄島からの手紙」を見るまで、硫黄島で何が起こったか知らなかったとか。一方、中学生たちは、楽しいはずの移動教室なのに「平和教育」という厳粛な課題を背負っているからか笑顔を噛み潰すような複雑な表情を浮かべていた。

 訪島によるフィールドワークの効果は絶大だ。島内視察の解説に耳を傾けるにつれ、気温50℃近い壕内を見学すれば献水するものが現れ、焼香台を見つけると線香に火をつけるものが現れた。戦没者への慰霊の気持ちと戦闘の悲惨さを胸に刻んでゆく一般村民が増えていったのだ。

 硫黄島を所管するのが小笠原村ならば、中学生だけでなく村民全員が、硫黄島での悲惨な歴史を忘れてはならないこと、それを後世に伝える役割を担うことを村のアイデンティティ(存在証明)にしてはどうだろう。

 いままで行われてきた「硫黄島訪島事業」は、それなりに成果を挙げて今日に至った。これからは、それを育むインキュベーター(ふか器)として継承してほしい。【記者の目】(本紙・七星浩也記者)


 硫黄島 戦没者遺族は語る

  硫黄島上陸が深める血縁の絆  江澤さん

   行きたくても行けない所…硫黄島   


 硫黄島旧島民は昭和19年に国の命令で強制疎開させられ、今もなお帰島できないということは、彼等は国から土地と仕事を取り上げたことになる。疎開できず現地徴用され亡くなった硫黄島島民は、命まで取り上げられたことになる。戦没者遺族も含め、国策により肉親を失った家族の戦後は、壮絶な苦労を強いられていたことを忘れてはならない。さらにその苦労がいまだ続いている人々が硫黄島に絡んで多いことも併せて覚えておきたい。

 江澤親夫(65)さん【写真・右上】は、硫黄島警備隊員であった父を亡くした。一人っ子だったため中学校卒業と同時に就職。しかし斡旋した都内に搾取され、3年もの間過酷な労働を強いられた。その後バス会社に34年勤務し、最近は遺骨収集作業や日米硫黄島合同慰霊顕彰式事務局を勤め、硫黄島と父との関係を深めている。江澤さんは胸につかえる思いを吐露した。

「盆、正月、彼岸、(墓参に)来たい時に来れないんだよ。ここに来るには2週間(遺骨収集作業)休みをとらなければならない。しかも自腹を切るのだからつらい。家族揃って来たら幾らかかるか…。行きたくても行けない所…」

 京極懋(67)さんは、独立歩兵第310大隊の大隊長であった父を亡くした。激戦の地でどのような最後を遂げたのか自分の目で確かめたいと、彼はいまでも遺骨収集作業に参加しながら、父親の足跡を探し続けている。

 生還者の執筆物に父の名前を見つけたとき、他遺族が持っていた手紙の中に父の名前を見つけたとき、遺留品から父の名前を見つけたとき、亡き父と心を通わしていることだろう。奥様の昌代さんは、「主人が夢中になってやっていること(遺骨収集)は理解できませんでした。

 今回、初めて(硫黄)島に行き、なんとなくわかった気がしました。40歳になる息子がようやく主人の手伝い(遺骨収集作業)をしてもいいなんて言い出して、主人は大感激してるんです」と暖かい声援を贈った。【本紙・七星浩也記者】

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