2010.9.6

硫黄島「最後の一柱まで」
 旧島民、遺骨収集へ信念

2010年9月6日 07時11分

                    収集は旧島民の使命」と話す岡本良晴さん(左)と宮川昌典さん(右)=東京都小笠原村で
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 菅直人首相の肝いりで発足した「硫黄島からの遺骨帰還のための特命チーム」が米軍情報に基づき八月下旬に現地で行った試掘は、期待された埋葬地発見に至ることなく終わった。しかし、一九九八年から遺骨収集に携わってきた旧島民は、島に駐留する自衛隊の防衛機密や米軍に対する“外交的配慮”に活動を制限されながら「最後の一柱まで見つけたい」との信念で、政府の姿勢を注視する。 (沢田千秋)

 「ぼくも連れてって!」。一九四四年七月、硫黄島摺鉢(すりばち)山の南の浜辺で、当時十八歳の宮川龍也さんが、本土行きの大型船に向かって叫んでいた。島民約千人が強制疎開する中、若者百三人は食料調達のために軍属として島に残された。八カ月後、島は本土防衛の最前線となり、民間人八十二人を含む日本人二万人以上が戦死。夜の砂浜を泣きながら走る龍也さんは、船上の家族が見た最後の姿だった。

 今、父島(東京都小笠原村)に住む龍也さんの義弟岡本良晴さん(77)とおいの宮川昌典さん(54)は遺骨収集に打ち込んでいる。島は戦時中に掘られた地下壕(ごう)と米軍占領下での施設整備で、戦前の原形をとどめていない。激戦から生還した旧島民は、大半が悲惨な体験から口を閉ざし、収集は難航している。

 日本兵は全長十八キロの地下壕で、火炎放射や銃撃、手榴(しゅりゅう)弾を浴びて亡くなった。地熱で気温六〇度に達する壕の中、岡本さんらは手作業で土を掘り返す。岡本さんは「焼け焦げた鉄帽や折れ曲がった銃と一緒に、折り重なるようにたくさんの遺骨が出た時はみんな涙、涙ですよ」と語る。

 旧島民にとって遺骨収集は「島民がいた証し」。島は戦後、人の営みが絶え、基地の島となった。が、かつては漁業と硫黄の採鉱で豊かな暮らしがあった。岡本さんは「犠牲者は島で生まれ育ち、国のために死んだ。最後の一柱まで見つけてやるのがわれわれの使命」と語気を強める。

 龍也さんの遺骨はまだ戻らない。骨つぼには死亡証明書が一枚。戦後五十年近くたち、生還者が重い口を開き「龍也さんは(司令官だった)栗林忠道中将率いる最後の突撃に参加した」と教えてくれた。宮川さんは「伯父は兵隊じゃないから鉄砲の使い方も知らなかった。祖父が持たせた日本刀を持って突撃したのか」と、非業の死に思いをはせる。

 「国は無理やり家族を引き裂き、古里を奪った。今さら、基地に出て行けとは言わない。だから、遺骨収集だけは最後までやってほしい。私たちも一緒に汗をかく。このままじゃ、死んでいった旧島民に顔向けできない」

(東京新聞)

 

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